降級制度を廃止する理由と疑問

90年代末のトレセン事情

と、前ページで振っておきながら、話を少し変えて1990年代末のトレセンの管理枠についても解説しておこう。
この頃、調教師一人に与えられるトレセンの馬房は最大20馬房、そして休養馬としてトレセン外で管理できる予備登録枠が14。つまり、調教師が同時に管理できる馬は34頭までであった。
しかし、この限られた枠では休養馬と状態の良い馬の入れ替えが困難であり、厩舎経営の足枷となっていた。
また、JRAとしてもレース編成、特に当時はトレセンで3ヶ月前後に渡る長期の調教が必要だった新馬の入厩が滞る事で2歳戦の編成に支障が出ており、そして馬主側も約7400の登録枠では入厩希望を満たす事が出来ず、預けたい馬を預けられないという問題を抱えていた。

こういった問題以外にも、厩舎の成績が上がらなくても馬が集まってしまう競争原理の欠如や、長期休養馬を管理枠から外したい調教師が枠に余裕のある他厩舎にペーパー移籍させるという反則スレスレの行為が行われていたり、枠を確保するため調教師などに過度の接待をする馬主が出てくる等など、様々な面から厩舎制度の改革は不可避な状況であった。

そして行われた厩舎改革

これらの問題を解消するため、JRAは2001年から予備登録枠を拡大することを決定する。
元々は成績に応じて馬房を増減させるメリット制を先に導入する予定だったという話もあるが、これは調教師会が難色を示し、馬主側も枠そのものが増えない改革に否定的で頓挫。
ならば、形だけのチマチマしたものではなく大胆にガッツリやってやろうじゃないかと、予備登録枠を馬房数の3倍、つまり20馬房を持っている大半の調教師の管理枠が34から60へ、倍近くに増やす事になった。

これにより馬主は入れたい馬を入れることができ、調教師は馬の入れ替えが楽になり、JRAも出走頭数の増加による番組編成の充実化できる。
関係者の意見をすべて取り入れ一見すると三方良しで万々歳の改革であったが、その結果は日本競馬界の観念があらゆる面での崩壊を招くことになる。
その一面が、現在まで続く除外ラッシュである。


コメント

  1. ななし より:

    >その一面が、現在まで続く除外ラッシュである。

    言いたいことはわかりますが、未勝利と500万下の除外ラッシュは1990年代前半には既に競馬雑誌などで問題視されていました。
    2000年代にメリットシステム制が開始されるずっと前から未勝利と500万下は除外だらけでした。
    その結果、JRA所属馬の出走機会を確保するため、JRA交流競走が1994年から始まりました。

  2. ななし より:

    そもそも新馬・未勝利のフルゲート増加は未勝利戦終了時期の繰り上げ(昔は11月の福島開催までで、今は夏の小倉・新潟開催で終了)やJRA交流未勝利戦の減少(これはJRAの予算削減や地方競馬の廃止が原因)なども原因となっているので、一概に管理頭数の増加のみが原因とは言い切れない部分がある。

    この記事では全く触れられないけど、除外ラッシュの一番の原因は外厩の充実でしょう。
    昔は外厩がほとんどなかったから、休養明けの馬など、馬房にいてもすぐに使えない馬が一定数いたけど、今はそんな馬は馬房に置かない。
    外厩がほとんどなく、すぐに使えない馬が馬房にいた時代ですら除外だらけだったので、2000年代初めに管理枠を増やさなくても、地方競馬からの出戻りを条件を緩和しなくても結果は同じだったと思う。

    JRAには競馬法改正して1日12R制限を撤廃するという考えはないのかな?
    除外問題を一気に解決する名案だと思うのだが。

    • Luthier より:

      コメントありがとうございます。

      まぁ、それに対する回答は続編に長々と書いてますのでそちらを見てもらえればよいかと思います。
      簡単に言えば預託枠拡大以前と以後では問題のレベルが違う。
      そんな感じで結論の部分は全くもって同意ですが、その過程に関してはちょっと同意しかねます。
      なぜ外厩が発展したかの理由も含め。